昭和49年02月01日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 いつまでも尽きぬおかげ。いわゆる限りない無尽蔵のおかげ。金光大神に伝えておられる神様の心というか、話にして残しておってくださる、その話というのはいつまでも尽きぬおかげの頂けれる、大元になるようなお話ばっかりなんですよ。日勝り、月勝り、年勝り、代勝りに、おかげの頂けていけれるお話ばっかりと言うて良いと思うです。金光大神が教えられている事は、御神徳を受けていくというお話なんです。いつまでも尽きぬおかげの頂けれるお話なんです。
 ですから願いとする所が、そこにおかれなければいけません。だから勿論ただの話ではありません。皆さん本当にこの無尽蔵のおかげ。限りなくおかげが頂いていけれる信心を、身に着けさせていただこうという願いの元に、信心の稽古をさせて頂かにゃいかん。この事一言二言が成就すると。それは神様の働きを信ずるというか。神様の働きを段々信じ、確信を受けて行く事のために、それは必要でありますけれども、ただそれをおかげを頂いていくというだけで。
 成程神様は間違いないと言う事が分かって行っただけではいけません。合楽に御神縁を頂いて、日々おかげを頂いておられる、皆さんの場合はそこの所が間違いなく感じておられるだろうと思う。いわゆる参りゃ参るがたある。お取次ぎを頂いてお願いをすればお願いをすれば、お願いをしたがたあるとおかげを受ける。昨日福岡の川上さんが、今毎日寒修行に入って日参なさっておる。今丁度皆さんがお届けを終わった頃に、一番のバスを利用して参って見えます。
 毎日毎日が信心の喜び感動で一杯という感じです。是は不思議なようにあるけれども、福岡からここまで参ります間に、一緒に乗り合わせられる。電車バスで見えます。そこには私の話をどうでも聞かせて貰わなければ出来ないと言う人達が乗り合わせておるという。私はそれを聞いて素晴らしい確信だねと言うて話した事でした。以前は金光様のご信心を頂いておったとか、父が母が信心をしておったとか。金光様の信心を頂いておったとか。私はどこどこの信者とか。
 と言う様なですね、そういう又は今日あなたの話を聞いて助かったと言う様な人達がです、必ず乗り合わせる。神様が使うて下さる。今日の御理解から頂きますとです。神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道をふんでゆくのぞと。真の道を踏んでいっておる所へです。川上さんが信心を頂かれたのは二十年にもなりますでしょうか。初めて福岡の、秋永先生所で私がお会いをした時に、まぁその前に色んなおかげを受けられた。秋永先生を通しておかげを受けられた。
 この神様は不思議な神様だと言う事が分かった。その次に私と会った。結婚されて十三年ですか。子供さんが出来ない。それでその事をお取次ぎを頂いて願われた。願われてその月からおかげで月のものが止まった。息子さんも一人は大学もう一人も、今年大学入試を目指しておられる。それこそ神様から、あつらえて頂いた子だから違うねと言う位に良い子で、二人とも。そう言う様なおかげを頂いて非常に喜びが強い人。
 あなたはおかげを頂くこつあいというか、おかげを受ける名人だと秋永先生が、いつも言われるくらいです。川上さんという人ばっかりは、純粋だから素直だから。私たちの言う事でも、本当に純真な心で頂かれる。だから見事におかげを受けて行かれるというのが、十何年間殆ど二十年間というのはそういうおかげの名人であった。だから今日私が申しますのに、そういう信心だけではです。
 尽きぬおかげを頂いていくと言う事にはなりませんのです。どんなにおかげを受ける名人であっても。所が自分のリュウマチとか、他に色々病気が出まして、最近身体の上に大変修行させて貰うて、親戚のお医者さんに通われておるけれどもどうも思わしくない。そこで、初めて合楽にお日参りをさせて貰おうという気になられた。勿論医者も止められた薬も止められた。
 おかげで手足が軽々とお参りが出来る。たまにははぁ今日は少しはと言う時があるけれども、やはり押してお参りをすると、あくる日はおかげを頂くと言う様な毎日である。そうして本当に十何年か二十年近くも、おかげを頂いてきておってです。どうしてこういう事が分からなかっただろうかと言うておられる。福岡から毎日朝参りをされるてんなんてんという事は、とてもとても夢にも思わなかった。そう言う事はしなくっても、そういう信心はそう出来るもんじゃないと思うておった。
 又そんなにお金は続かんと思うておった。所がお金も続くお参りも出来る。いやそのお参りが楽しゅうして、楽しゅうして有難うして有難うしてと言う事である。金銭の上にでも、愈々明日はお初穂がないと言う様な時でも、神様のお繰り合わせを下さっておる話を聞きますと、本当に神様ちゃ間違いがないね、間違いがないねと言うて、言うほどしにおかげを頂いておる。そして今申しますように、お参りの行き戻りの道中がです。必ず神様が使うて下さる。
 いや私がそこのかけなければならない、その人と会わなければならない。その人に話をしてあげなければならないという人に、必ず巡り合え必ずおかげを頂くと言う事。その御用に使うて頂くと言う事が有難うしてたまらん。昨日のお話の中に知り合いの方で、癌を患うておられて死を待つばかりと言う様な重態の方の所へ行ってお話をされた。それこそ大変良い方ですけれども、信心と言う事を知られなかった。
 所が川上さんが行ってお話をされて、御神米をあげられるようになってから、御神米を一粒ずつ頂いて下さい。そして、私も一生懸命おすがりをするから、あなたも金光様金光様とお縋りして下さいと。大変苦しんでおられたのが、御神米を頂かれる頃から苦しみが、段々薄くなってきてなくなってしまう位に楽になられた。そこで息を入れられて一生懸命、お願いをしておられた。所がその方が、昨日一昨日ですか亡くなられた。
 そしたら隣にちょっと皮肉な、信心に皮肉な人がおってですね。「川上さんあなたが御神米ば持って行ってやりなさるごつなってから、亡くなんなさったげなですよ」ち、言わしゃった。「そんな事は決してありませんよ」ち。成程亡くなられたのは亡くなられたのだけれども、亡くなられるまでのおかげというものは、私共じゃ分からんけれども、その深さ広さは人間じゃ分からんよと。と言うて色々お話をさせて頂いた。先方に又お悔やみにも行かれた。
 ところがそこの娘さんがそれこそ、涙を流さんばかりに喜ばれたと言う事なんです。「亡くなるが亡くなるまで、御神米を押し頂いて亡くなりました。」と。皆さんがおられる所でです。本当に御神米の新たかさを知りました。だから勿体ないかも知れませんけれども、御神米をお棺の中に一緒に入れて、おかげを頂きましたがと、例えば片一方の近所の人から聞いたのと、それはそれが本当だと死ぬる、生きるはおかげおかげじゃないという事じゃないと。
 初めて神様を知り初めて、金光様のご信心を頂いてです。いうならば寝床の中からでも、生神金光大神を唱えたら、唱えた方あると確信して、そこら辺のご本人から聞くと、まだ素晴らしいんですけれどもね。やはり二十年間近くも、御利益を頂くと、言う事においては名人であった。純粋素直。何もかにも喜びで受けると言った様なタイプの方です。けれどもこれが尽きぬおかげと言うようなものではなかったと言う事。それを今度お日参りを始めさせて頂くようになってです。
 今日の御理解で行くと「真の道を踏んでゆくのぞ」と言う所を頂いていっておられる。金光大神の教えた事を違わぬように、人に伝えていくと言う事に一生懸命である。それはお参りの途中なんかでも、色んな不思議な働きを、受けられておりますがね。先日からは、そんな事はあるはずはないんですけれども。あーた方は毎日お参りになるので、西鉄の方がですね、電車だけでなくてバスの定期券も買えと言われた。それでバスの定期券を買うと、安くして参られるからと言うて、買われたんです。
 そしてここへ着かれて池田さんと、そん時自分な二人でしたが、二人でお参りされて、二人共が熱烈な信心をされますので、有難うして有難うして応えんで、とにかくお互いの財布を、みんなお賽銭箱の中に入れてしもうてから帰られた。所がどっこいほんなら、久留米の西鉄で愈々乗ろうとした所が、これでは乗られませんよと言う事でした。どうかそこら辺が間違ってる。そこで池田さんも一銭も無いごとお賽銭箱に入れてあるし、自分も一銭もなかごと入れてある。
 さぁどうするかちもうそうにゃこう色々探したち。ないけれども何か財布の中を、こうこやって打ち振ったら、その紙に包んだものがバサっと落ちたら、その何かオリンピックの記念のあれがあったでしょう。あれが包んだのが一枚出てきた。あれはけれども百円です。大きな百円硬貨。そしたら西鉄の方あたりが、お金を持っておるはずはありません。持ってはならない事になっております。けれどもそれを預かってから、どっからか心配してやりなはったんでしょう。
 二人分が福岡まで帰られるまでの、あれをされたと言うわけなんですね。本当にそれこそお金がなくっても、お参りするという一念がありゃお参りが出来るという意味の事を、その時分に言っておられました。そらまた本当にそうです。神様を信ずるという事だけでなくて、神様から頂いたそれを、神心となりて、人に丁寧に話をして行くのが、真の道をふんでゆくのぞと。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞとまで言うておられる事。
 神になっていかれておるそれが有難い。自分でそれを感じる。そこでです一番最後に、神より上になると思うなと言う所です。これは色々問題があるわけですけれども。まぁ慢心と言う事でしょうか。神様を使うばっかりというのは、ある意味では神様を使用人のごと思うとるから、神様よか上になる事になるわけですけれども。そういう風にも頂ける。神様に使われようとはしない。ただ神様を小使いのように使う。今から集金に行きますから、どうぞよろしくお願いします。
 まるきり神様を集金人のごと思うとる。と言う様な事も、神より上になると言う様な事にもなります。けども初めはみんな誰でもそれですけれども、本当の事はそうではないと思うですね。私はここん所を、昨日の御理解から頂いて思いますのにです。昨日親に孝行をすると言う事は、人の道の根本になるものだと、いう意味の事を申しましたね。どんなに素晴らしい事が分かっておっても、おかげを受けておってもです。親孝行の心のない人は、根のない信心と同じ事だと。
 根本になるのだから。親に孝行をするという心が、人の道の根本になるもんだと。ですから親孝行と言う事はどう言う事かと言うと、その撫でたりさすったりしてあげると言う事だけではない。ただ親の言いなりになっておくと言う事ではない。例えて申しますと、平清盛と、重盛の親子の事でもそうですね。「君に忠ならんと欲すれば、孝ならず」ですか。「親に孝ならんとすれば、忠ならず」と言う様な、悲痛な重盛の悩みです。けれども私は御道の信心を以ってするならばです。
 忠にもなれば孝にもなる道があると思うんです。ですからその所をです。二人を両方とも納得させると言う事は出来なくってもです。例えば桂先生の御教えの中にもございますように、「親に不孝をして神に孝行をし、親に孝行をする氏子がある」と仰せられる。「神に不孝をして、親に孝行をし、親に不孝をする氏子がある。」いかにもあの人は親孝行だと、言いよるけれどもです。返ってその親孝行が、親の命を縮めたり却って親に不幸に成る様な人があると。
 私共金光様のご信心する者はだから場合によっては、いかにも形の上においては、親に不孝のごとあるけれども、神に孝行をして行く所からです。親に孝行をするという氏子にならなければいけん。私も大体自分では本当に、親に喜んで貰いたいという一念が、信心を本気でさせて頂いた事になったと自分で思っておりますけれども。その大切な親がです。泣いて縋る様にして申しましたけれども、私は親の言う事を聞かなかった時代がある。そしてただ神様一途神様の仰せには背かれんという生き方をさせて頂いた。
 そして今日に及んでおる。今でも私は昨日桜井先生夫婦に、この辺の所は難しくて、本気で求めてもらわなければ、お話の出来ないところですけどもね、と言うてお話をしたことですけれども。私は一遍も親に着物を買うてあげた事もなからなければ、美味しいものを買うてきてあげた事もなからなければ、撫でたりさすったりしてあげた事もない。まぁ強いて言うなら、最近月次祭の日だけを、四回親と一緒に食事をすると言う位な事なんです。けれども神様に親孝行をさせて頂いておる。
 そう言いなさりゃ先日もあちらにお部屋にやらせて頂きましたら、お爺ちゃまがあれを食べろ、是を飲めと出して下さったが、あそこ行ってないもんがない、と言う位におかげを受けておられるとこう言う。いうならばに不孝をして神に孝行をして、その後に親に孝行をするというのですから。君にも忠なら親にも孝と言う事になる道があるのが信心です。そこの所はちょっと長くなりましたけれどもです。
 神より上になると思うなという事。ですからその過程においては分からないです。また信心の薄い者では分からない。いうならば当時私本当に知っておる人でも分からなかっただろうと思うです。けれども一番根本になる所は、親に孝行したい一念が神様へ一生懸命向かっておるのですから。だからここん所は神より上になると思うなと言う所ですけれども。その根本がです。
 神様に喜んで頂きたいの一念が、行動に様々に現れておるその行動がです。また言うたりしておる事が、この頃あっちは慢心が起きてる。あげな事しなさるとおかげ落とすと言う様な場合があるかも知れんけれども。それは神より上になると言う事じゃないて。問題は、根本がです。親に喜んで貰いたいの一念。神様に喜びを頂きたいの一念がです。形の上においては、慢心に見える様な事もあろうかとも思うです
 。だから自分の信心を検討する場合です。神様により喜んで頂けれる生き方、あり方にならせて頂きたいというです。願い祈りの元にそれがなされておるとするならば、神より上になると言う事じゃないと言う事。例えば肉親なら肉親の親がはらはらする。本当に、あんな親不孝な子供はおらんと思うかも知れない。様な事もあるかもしれない、肉親の親でも。けどもその根本がです。
 より親孝行したいためなんですよ。より神様に喜んで頂くおかげを頂くためにですよというものであるならば、それは神より上になると言う事ではない。慢心であると言う事じゃないというふうに思います。川上さんの例をもって聞いて頂きました。二十年間の信心を続けて、おかげの頂き名人と言われる位に、おかげを頂き続けてこられた。自分の身体の上で医者じゃ、病院では薬ではどうにも出来ない所に立ち至った時にです。初めて福岡からのお日参りを始めた。
 始めてから気が着いた事はです。参ろうと思えば参られると言う事。お金がないと言う事は、神様がその費用は必ず作って下さると言う事。その時には場合には財布を叩くようにしてでもちゃっと、その翌る日はおかげを頂いておると言う事。そういう確信に満ちた日々が続けられるようになったらその話をです。人に伝えなければおられないほどしの物になってきた事。往復の電車バスの中で、必ず自分の話を聞いて下さらなければならない人があると、確信する様になった事。
 そして今日もこういう方に巡り合って、こういう話をしてこういう風に喜こばれたという、それが実に楽しくて有難くなってきたと言う事。神様に近づいていきよる。その頃から信心が無い者が見ると、信心気違いと言われるかも知れない。言うなら人から皮肉を言われてから、あんたが御神米持っていってやったけん死んなさったげなよち言うような、皮肉を受けられるような時分もその時分です。私共でもやっぱそんな時代がありました。神様からそんな皮肉を受けよった時分があった。
 お前の信心は毒ヒラクチのようなもんじゃと言うて。有難く頂けば大変な薬になるけれども、反対に頂いたら毒でやられると言った様な。お前の話を聞いてはぁ極楽極楽と言うて、風呂に入って極楽を言うように喜んでいる人があるかと思うとです。燃料をゴムとかね。自転車の古タイヤとか古ゴムの草履なんかを、燃やしておるもんですからもう臭いがプンプンとしてですね。
 周囲には近所にはおられないぐらい、と言う様な表現で頂いておった事があったですけれどもね。今から思うと本当に、信心者でもそうでしたから、慢心と言うたでしょうし見たでしょう。けれどもとても今から思うてみて、あの時分に今日の御理解で言うならば、神に近づかせて頂く信心に、神様と自分とが一緒に働いておって下さる実感を もって信心生活させておった時分だとこう思うんです。
 昨夜は月末の御礼信話会でございました。皆さんが大変良いお話をなさいました。最後に、私に締めくくりに何かを話せと言う事でしたから、昨日は西岡先生が司会を致しました。話を聞いて頂いた事ですけれども、私はこの頃本当に何か一つの確信、大きな意味の確信に満ちてる。昨日も私久富先生二人でここ済んでから、五時ごろお風呂へ入るため、テレビ室あそこの中を通って、あそこに大きな地球儀が飾ってあります。
 地球儀を毎日一遍はこの頃、見たり撫でたりする事が楽しい感じがするんです。それで片一方の手で、こうこやって回しながらね。これは本当に地球が私の片手で回るような時代が、必ず来ると言う様なね。これは私一代二代のこっじゃないけれども、私が唱えるように言うておる所の、和賀心時代を作ると言う事もです。これは夢ではないぞと言う様なものが、最近特に確信付けられて来たんだ。
 先日から伊万里に、ある用で参りまして、竹内先生のあそこの伊万里の市庁舎を見学させて頂いた。それから隅から隅までの、先生の信心というか神経が行き届いておる。それは見事な市庁舎を見せて頂いて、本当に色々話を聞けば聞くほどです。先生のあり方に絡んでくるという人段が無くなって来たと言う事。それ以来私はです竹内先生のような方が一人市長さんが出来たら、伊万里が和賀心の市に町になると言う事なんです。してみると合楽の信者の中に、総理大臣がいっちょ出来たらですよ。
 日本が和賀心の国になるという事なんですよ。この生き方でいきゃ出来ん事はないという事です。お互いが本当の信心になれば。今日の御理解から言うならです。自分がおかげを受けた事を、それを実際の仕事の上に現して行くという行き方。それがおかげおかげと言うて、ただおかげだけの世界に住む信心では、それが出来ないと言う事。それこそ身をもって言うならば、市民に教えておられると言う事。それが私は今度の伊万里行きの、一番のお土産であったと思うんですけれども。
 以来それに確信が出来て来た様な感じがするんです。昨日末永先生が発表しておりましたがこの修行に入ってから、高橋正雄先生は「見る事見る事、自分を見る事」と言われる。自分を見る事が極めて行く事だと言われるが、私の今月はです見る事見る事親先生の信心を見る事。是に賭けたとこう言うております。私は本当に合楽の大坪の信心の、どこからああいうものが生まれてくるかと言う事をです。本当に見て体得する事だと思うです。聞いて体得する事だと思うんです。ただ聞き流しじゃ駄目だと言う事です。
 これも昨日夕食の時に、昨日久保山のお母さんが、東京から帰ってまいりました。あちらからお寿司を託けておりましたから、夕食の時にお寿司を頂きながらです。もう本当に先ほど東京で作ったのが、もうここで夕食に私が頂いておると言う事からです。愈々その距離感というものが無くなって来たと言う事。いうなら地球がこもなったんだと。ですから世界が広いの、地球がこまいち言う事はないて。
 本当にあっという間に東京の、銀座で作ったお寿司を味が変わらないうちに、ここで九州で食べられると言う様な時代なんだ。そしたら嫁が、昨日のおつゆを作っておったのが、四五日前、おつゆを作りました。それがとても美味しかった。だから私があのおつゆは、とても美味しかったけん、もう一遍食べさしてくれと言うておりましたから、昨日作っております。それが簡単なおつゆなんです。卵を溶いてお吸いもんのようにして、それに何か片栗のようなものを入れて、ショウガ汁が入れてあるというもの。
 その味わいの良いことがね。本当に素晴らしかったです。だから褒めとったもんだから、昨日また作ってきてるんです。ほれで「本当にこのおつゆは美味しか」と言いましたら、申しますことがです。勿論娘時代に母と一緒にこの頃から親先生が東京に行かれた時に、父がてんぷら屋に一番に美味しいてんぷら屋さんに、ご案内したと言う事ですがね。あそこに母と一緒に、てんぷらを食べに行きました。そしたらそん時に出たのが、このスープでしたとこう言う。
 そしたら母が私の申します事が、「良子さんこの味を覚えていきなさい。」て言うた。私はそれを聞いた時に本当に素晴らしいと思いました。いうなら味をもってしか、伝統のあるお店、もう味に、それだけの一つの執念と言った様なものをね。とても家辺りでは真似のできないほどしの素晴らしい味。この味を良子さん覚えていきなさいと。板場さんに聞いて行けとも言わなかった、見て行けとも言わなかった。
 ただこの味を覚えて行けと言うた。それからお母さんと二人で二三回、家で作っただけですから、本当の味ではありませんけれどもと、昨日言うのを聞かせて頂いてから、家内と良子さんがいたときに話しました。素晴らしかねて。俺達がどうだろうか、子供達にこれを見ておけと、これを覚えておけと言う事が、言えれるような信心と。これは芸事でもそうです。歌舞伎役者なんかは、見て体得するだけなんです。手を取って教えられるという事は、滅多にないのです。
 だからそういう一つの執念のようなものがです。信心の上にもそういう姿勢が要ると言う事です。末永先生が言っておりますように、見る事見る事親先生の信心を、本当に見る事だと言う事です。そしてどこからあれが生まれてくるか、どこからああいう素晴らしい味わいが出てくるかと言う事をです。その味を覚えておけと言う事です。成程自分を見る事もじゃけれども、先ずここでは師匠の私の信心を、見る事以外にはないんだと思うておると、こう言うわけなんです。
 それを聞かせて頂いて、そげん見られとるなら余り迂闊な事も出来んと、思いましたけれどもね。けれども親先生がどうして、あげな事さっしゃるだろうかと言う様な事も、見てもらわなければならないと言う事です。例えば私が修行生の方達に言う様に、私に隙があったらどっからでもいいから打ち込んで来いと、私はこういう風に言うんです。人間ですからどげな時でもあるどげな場合でもある。けれども問題はその中身なんです。それをです私それこそ見る事見る事、師匠の信心を見る事見て体得するんだ。
 そう言う様な姿勢をもって、私はこの六十一節は頂かなければ、神様へのこれが一番のお礼ぞと言う様なおかげになって来ない。また私の心の中にです。世界に和賀心時代を作る。えらい事ばっかり言う大きな事ばっかり。勿論これは私の一代、二代で、または十代続いても、出来る事ではありますまいけれどもです。けれども竹内先生の生き方のような生き方をする人が、合楽に沢山出来てきたら出来るんだ。自分の心の中に、自分の周辺にです。川上さんのようにです。
 電車に乗り合わせた人の上にでも、それを伝えなければやまんと言う様な生き方がです。ある限り私はおかげの頂けん事はない。その間においてはです。それこそ自分が神様になったごたるこつばっかり言うと、人から見たら慢心と言われるような事があるかも知れんけれどもです。それが天地の親神様の一番の願いだ。世界の総氏子が本当に、和賀心を目指して、人間が本当の幸せになってくれる。氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る。その神様の願いを受けて立たせていただくという。
 これが神様が一番喜んで下さる、その過程においてはです。荒々しい事もあろう。ちった慢心のように見えることっもあろう。ちった信心気違いじゃなかじゃろかと、思われる様な事もあろうけれどもです。それは私は神より上になると言う事ではない。根本が神様に喜んで頂きたいの一念がです。場合には人の目に余る様な事を言うたり、したりする様な事にもなるのでしょうから。人の道というけれどもです。
 人の道の一番根本になるのが、親孝行であるように、信心の根本というのは、神様へのお礼の心いうならば、そのお礼とはどう言う事がお礼になるかというとです。自分の周辺に、本当に真の信心を頂いていく人達が増えると言う事が、神様へのお礼なんだ。それが、神になるのだとも教えておられるのですから。その過程においては、神より上になっておるような風に見えるような事もあるかも知れませんけれども、根がです神様のお喜び頂けれるその思いを、神の願いは自分の願いとして行けれるような信心をです。
 身につけていっておる。またそうであるならば、是は神より決して上になるものではないと言う事。それにはです。親が子供にです。それは味一筋で長い伝統を持っておる、銀座の二葉という寿司のお母さんだからこそです。それが言えたここのてんぷらの、この味は、とても家辺りで出来るこっじゃない。こんなスープの味はとてもと思う、その自分が思うたことをです。
 娘にこの味をしっかり覚えて行けよと言えれる信心です。お母さんは、あんた達に言うておく事はないけども、お母さんの是だけは一つ覚えておってくれんの。是さえあんた達が覚えていきゃ、幸せになれない事はないと言う様な、自分が確信に満ちたものをです。持っておって、その味を覚えて帰れと言う様な姿勢をです、作らなければならないと思う。信心をさせて頂く、信心を受けていく者の姿勢というものが。それがただおかげを受けるからだけではなくてです。
 そういう信心が体得出来た時に初めてです。尽きぬおかげが約束されると思うのです。金光大神はそういう、尽きぬおかげを天地の親神様から受けて、それを伝えておって下さるのです。只その場限りのおかげの話じゃないです。金光様のご信心のお話は尽きぬおかげの頂けれるお話ばっかりなのですから、それを本気で身に受けていこう。自分の心に頂いていこうという姿勢を作らなければ、本当の信心の稽古にはならんと言う事ですよ。
   どうぞ。